Βρεκεκεκὲξ κοὰξ κοάξ. ブレケケケックス,コアクス,コアクス(蛙の鳴き声)。


人間の世界の記号性を、その二次元の描写に見事に表現した浮世絵は、それまでの自然の学術的・古典的描写に対立し、人間の精神性の描写を目指したヨーロッパの芸術家たちに影響と共感をもたらした。

現代においても、日本で最も優れているとされる人物が、「誇るべき日本人の思想」を著した。ごく最近出版されたその本の内容を、やや脚色して、以下に紹介したい。

「矛盾[無宗教]こそが、世界を一つにする。なぜなら、矛盾こそが、別々の事柄を一つにするからだ。この矛盾の内にこそ、平和が訪れる。矛盾は、何も否定しないからだ。複数の形相で一つの身体を扱うことになるため、笑いがその快活な証拠である。成熟した含みのある会話はお手のもの。「美」という排他性もその中に一緒くたに分別してある。「妥協」の隣、つまり、ロックだ。一瞬だけ望まれる火花のような生だから、ありがたみが感じられる。矛盾という真実によって限定される神は、いい加減にふざけた奴だ。矛盾の内に何かが生まれるわけはないから、そんなものがいるわけもない。」

浮世絵の詩情は、「芸術品自身が自らを記号として表現する重複、かつ真実の告白」と言える。彼は実に見事な浮世絵師だ。哲学が「どうとでもなる正当化」になるのは、物事の定義を変えながら物事を論じるからだが、彼は矛盾(「無宗教」)を真実とすることで、世界を浮世絵にして見せた。人間の記号の実在化の表現という、―彼には表現の自覚はないだろうけど―歌舞伎でもある。それは常に、滑稽だ。

しかし、真実を求めた哲学者たちの弁護はしておこう。人間が好き勝手に色を塗りたくるキャンバスにしている真実は、それが如何なる意味をもっていようとも、その意味は全にして一の形に結び付けられている。その実在における結びつきは、記号までしか許されていない人間には神秘だ。その神秘の内に、アリストテレスデカルトたちは、唯一の神を無限定として見出したのだ。彼らは、意味と形を結びつけること自体が、「人格」の本質であることを知っていた。(宗教学者たちなら、真実における整合の完全性から、その完全な精神を「神格」とも称して区別するだろうけど。)

面白いことだ。神が定義した真実は少なくとも、人間の精神をたんぱく質の塊に結び付け、人間の精神に肉の塊の定義を変えることを許し、そうして造らせた言語で神を否定することだったのだから。芸術における主題の美は、その純粋による捨象性の対象を常に求められる。

「この民のところに行って、告げよ。あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、その目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って、立ち返り、わたしにいやされることのないためである。」