οὐδὲν ἄλλο ἐπιτηδεύουσιν ἢ ἀποθνήσκειν. 彼らは死せることより以外何ものをも練習せず。


聖書という荊の冠。月日、出来事と人物、予言、諸言語の字句。それらは、たとえ話のための法則性しか持たない。それなのに、なんと多くの人々が、ありもしないことをそれらに求めてきたことだろう。なんと多くの迷信や憶測が、棘に刺さった人々のはらわたから飛び出してきたことだろう。

ギリシャ語やヘブライ語でさえ、人間のための形相に過ぎない。人間が認識できる限りの範囲内にある音波や、線・点に過ぎない。ラテン語だって?欽定訳聖書がさも権威あるように用いられていることと何の変りもあるまい。人間は聖書にない棘にも刺さる。

理性は、すべてを焼き尽くす火だ。それは血縁と肉体関係を燃やし、民族を燃やし、自然のあらゆる意義を灰にする。人間の国家はそこに打ち立てられ、互いに燃え移る。貨幣も金銀からの灰によって鋳造される。ならば、人間の理性は灰以外の何を所有しているというのか。人間の腕が動くのは、人間が「動け」と命じるからではない。人間に、そのような神性はない。人間の知者とは、灰の塊のことだ。

どうして、肉体が人間の目的になろうか。どうして、人間の理性に血縁の関係があろうか。物事の順序を以て物事を考察し分類することは、家畜のすることだ。帰納法とは奴隷の思考に過ぎぬ。目的因の共有・相続に家族は形成される。「理由」とは、定義ではなく、定義と体系の構築を為す一つの目的である。定義に服従するのは「女」と「奴隷」。定義を定めるものは「王」、相続者は「子」と呼ばれる。確かに自然にはそれ自体の内部に定まった順序・対比関係という秩序を有するが、それらの順序・対比の内に、自然が自然であることの理由はない。理性は、自然の意義に先立つ。何者かの理性が、自然を定義した。人間が点と線にあらゆる意味を吹き込むように。人格だけが、創造するからだ。人格の目的とは、聖である。故に、一つの真実の王は唯一である。

自然の「ある」を求めて食物のために争いが起こり、人間の記号によって灰となった領土や貨幣のためにも争いは起こる。記号と存在が同一視されて種種の体液の排出衝動が精神の所産とされたり、記号の取り扱いによる形而上の顛末が身体の働きによるものと説明される。自然の「ある」、記号認識の対象・形相の「ある」、意味の「ある」とも異なる人間の霊の「ある」は、かくして狂気に走る。そのありのままに愛されながら、死に走る。