ἐλεύθρον ἀδύνατον εἶναι τὸν πάθεσι δουλεύοντα, καὶ ὑπὸ παθῶν κρατούμενον. 激情に屈従し、激情によつて支配せらるる者は自由たる能わず。


「キリストを信じよ。」。キリストとは何か。信じる対象に関する知識の多少は、確かに信仰の有無に関係しない。ならば、「キリスト」とは何か。“Who I am.”しか残らないのではないか。

その人の真実に少しでも矛盾や虚偽が含まれるならば、その人にとっての神は、「ない」によって限定される。「ない」がその人にとっての「御子」であり、そこに聖=愛、すなわち御子=主題への純化が始まる。かくして、無限定の「神」と限定要素の「御子」と聖への霊感の内に、一つの真実・言語が創造されるのだ。「御子」が石ころであるならば、 石ころという主題のために世界は純化される。

人間のわずかな不完全はそれだけで、“Who I am.”という義を、美を、真実を殺す。“Who I am.”が正しさだけをその栄光とするなら、人間は滅ぶためだけに創造された。しかし「キリスト」という“Who I am.”は、人間を赦すための、人間に対して聖であるための“Who I am.”であり、そのために、人間の罪に裂かれたのだ。人間は、ここに実に全てをキリストに奪われた。

見たまえ。人間がその罪の表現を含め―実際には人間の記号は存在ではなく、人間が悪と呼ぶものは全て人間の記号の失敗であり、人間の死は人間の不完全への正当な報酬なのだが―、そのありのままのことごとくを如何に愛されているかを。ここに神の怒りは忍耐される。しかし、完全者の憎しみは、その完全が意識されるところに、消却される。その裁きは、全て徳―時宜に然るべき、程度に然るべき、作法に然るべき、表現と表現への意思即ち敬虔さに然るべき仕方―による。

人間の神への恐れは、何と価値あることだろう。どれだけ殺されれば、その敬虔さの限界が関西弁の聖書や卑屈さに帰着するようなことがなくなるのだろう。どれだけ間違えれば、人間の“I am.”が、「ある」よりもむしろ常に「ない」に終焉するところに、完全者への侮辱を悟るのだろう。少なくともここに一つの事実という言語を認めるのであれば、人格のみが言語を想像する以上、事実の「ある」によって限定される神の人格と、記号から存在への境界線の奥の神秘、神の神性を悟れるはずであるし、「御子」=事実という一義のために必然として唯一の主題のために、人間の人格がここに無限定の状態で生み出されている以上、「御子」が石ころや「ない」ではなく、少なくとも人間を滅ぼすためであれ憐れむためであれ、義としての、「ある」としての“Who I am.”であることは明らかであるのに、人間は真実に矛盾や虚構、多義的世界という存在不可能性を許容するのである。人間は少なくとも、たった今、赦されている。

「多く赦された者は多く愛する。」だから、人間は悔い改めて、その砕かれた心を神に捧げなければならない。赦しは、悔い改めを前提とし、悔い改めは、「ある」方とそれを裂いた人間たちの「ない」を前提とするからだ。かくして、御子は人の全てとなり、全ては一つになる。

なぜ、人間は愛されることを拒むのだろう。なぜ、人間は愛することを希望しないのだろう。なぜ、人間は、真実が「ある」ということを、神が真実であることを信じないのだろう。それこそが、正義を受け入れこれを傷つけることを恐れることであり、聖への讃美であり、人間の砕かれた心のための、いのちであるのに。太古の昔から、これらのことは全ての人の眼前に常に明らかなのに。