τὰ πεπραγμέν’ αὐτὰ βοᾷ. 為されたる事(事実)自らが叫ぶ。


彼女は「女の方」と呼ばれ、母親扱いされなかった。
訪ねて行っても、キリストに家族ではないと言われた。
ついには、十字架上のキリストに、母子の関係の終焉を宣言された。

キリストの遺骸を抱く彼女が、美術における表現において「美」として、他を捨象する純粋としての「ある」として表現されるのは、全く正しい。

「女の内で最も祝福された者」は、「悲しみなさい。『産んだことのない胎は幸せだ』という
日が来るから。」という者の母だった。女を情欲の目で見ただけで姦淫だという者の母だった。すべてを新しくして、律法の完成を成す者の母だった。自然における血縁関係という暴力、自然における意味と形の結びつきをかつて定め、また更新しようとする者の母だった。

だから、キリストが死ななければ、彼女は女性でも母でもあれなかった。
十字架上に残された「ことば」の家族ではなかったからだ。

記号の領域を出ない人間の法が、存在意義を失った罪人が、塵に意味づけられた国家が、人に動物を要求する自然が、キリストを殺さなければならなかったように、マリアが母であるためには、キリストの死が必要だった。

芸術において人間の記号の形相を表現するにあたって、真っ先に数が、捨象される。数の量や順序における競争こそが俗の本質であるから、芸術は常に、定義の一貫性と、作品内の他のすべての要素を捨象する一つの主題を求める高貴さを帯びる。

キリストの言葉には、永遠の愛のみがある。すべては、その表現に過ぎない。

彼は永遠を過ごすために、海の砂のように多い家族がほしいのだ。

しかし、英知が最後に敗北するのは、人間の主題の選択における不可侵の自由だ。だから、ひとりの愚かな人間の愛は、全世界よりも価値がある。英知も富も、すべてを捨てても信じるに値するのは、キリストの愛である。

キリストは、あなたのために、十字架にかかったのだ。