πῖνε, παῖζε θνηπὸ ὁ βίος, ὀλίγος οὑπὶ γῇ χρόνος ἀθάνατος ἐστιν, ἂν ἅπαξ τις ἀποθάνῃ. 飲め,戯れよ.生命は死すべきもの,地上の時は少し.もし一度人が死すれば、死は不死なり.


この思想を徹底させている人はそういないから、憚りながらも言語化してあげよう。その人が自分のことを塵ではなく人と言っている限り、その俗人にとっては有益だろう。目的の純粋から来る一貫性を与えてあげよう。それを本当に望むことが信仰の動機を得るということだろうから。

「58億年もすれば自然とても崩壊するだろう。そうすればあらゆるものが空(っぽ)の心を獲得する。無自我こそが、精神の究極であり、人は自然の意義すら捨象することで、仏(物)の心を獲得し、物を自我とし、諸行無常の万象と調和して安寧を得る。あらゆる「ことば」が否定されれば、全てが一つになる。それが唯一の救いである。」

「我々にとっては如何なる人間の言葉も価値がないのだから、どんな人間に対しても怒りも罪悪感も一切湧かないし、互いに息を吐くだけのことであるから、完全に調和がとれ、相手を否定することは決してない。殺されることにだって耐えて見せる。我々の本質は物でしかないのだから。だから、我々の慈悲は超越的で、何であれ何でもいいのだから何でも包み込むことができる。我々こそが、最も平和的だ。」

「単純作業をするときの状態が最も素晴らしい。身体の動作だけを意識していられる至福の時だ。まるで移ろいゆく万象に調和したかのようだから。」

言論の自由と平和の両立は、複数の言論が、複数であることそれ自体で互いに完全に否定し合っていることが認められながらも、その状態が法によって表現されないように法が限定されている状態の成立に他ならない。これに対し、この思想は断固として完全を指向する意志を拒絶するはずだ。そのはずなのに、「布教の大波を起こしてみせる」なんていう暑苦しい文面を見かけると、間抜け過ぎてげんなりする。

「さあ、この思想に永遠を求めて人類すべてを救おう。頭がからっぽの状態こそが我々の理想だから、意味がわからなくてもつぶやいていることを信じたまえ。そのうち、言葉を求めること自体が無意義だと知って、安心することだろう。」

「どんな不条理にあい、どんなに辛いことがあっても、どんな虚構や矛盾に遭っても、塵に過ぎない人間であるということを楽しみ、これに感動したまえ。どうでもいいことに執着して自殺したりするのは何とも情けない。生きていればいいことだってあるのだから、人生というのは永遠や死を求めるようなものではない。」

「そう、我々は理解することを求めない。理解できるものは存在の条件を満たしてしまう。愛情だけが残るために笑いを求めるように、ナンセンスだけが残るために我々は微笑を求める。」

「石像や木像を理想の無自我の姿として崇めながら、愛や徳を語るナンセンスに、我々の栄光がある。無私にして相手の主題に合わせることで、仮象的・霊的な自己をないがしろにできる。こうして人間が意味を定置する対象である物を、物事の本質とすることで、目に見えない意味の世界から解脱する。」

「形・用語こそが物事の本質とする点で、我々は俗に近い。定義された意味とその一貫・整合の高貴よりも、数量とその順位の先後を求める俗が、我々にとっては「ことば」としての人間の本質に見える。過ぎ去る万象こそが、人間の心とすべきもの、形をとったものに初めて数が生まれるのだから。そして目に見えぬ意味を無くせば、「形」という意味なくして在れぬ形は、一切存在できぬ。58億年もすればやってくるはずの自然の崩壊こそが、未来における完全な救い、仏(物)心の権限である。」

「我々はとても苦しい。愛とは我々の本質から出るものではなく、万象過ぎさって愛だけが残ることを求めるのではなくして、すべてのことばが無くなって、もはや意味を失ったために「在る」ことができなくなった「物」を求めているのだから。愛も何も、すべてが重荷である。「死ねばいいのだ。」とも我々は言わぬ。男らしく泣き叫んで悔い改めることは我々の流儀に反するから、痛いのは嫌だと言って、女子供のようにきょとんとしていたい。だから、我々は何ものをも否定することなく、何ものをも愛することができる。必然、苦痛であるから、もし死ぬことができたら、塵に還れたらありがたい。そこには塵しかないのだから、生も死も一つ(のカテゴリー)である。それらは仮象的で、存在ではない。だから、我々にとっては生も死もないも同然である。」

結局のところ。これは真理を求めない人々の救いだった。「ことば」としての自らの主題の決定である信仰こそが、記号を存在とする神に相対するか、あるいは一致する人間の価値と認識しながらも、彼らは、その信仰を以てその価値を捨て去ることを決意したのだ。

彼らがここに書かれていることを否定する時は、彼らが一貫性を失っている時か、上記の括弧内の思考を完全に捨てる時だろう。「私も塵に還る身だからことばを扱うなんてことは憚るけれども、君も塵に還るのだよ。」というせっかちがある場合は、目に見えぬ私のことを彼らが塵と考えているなら、彼らにしてみても余計な御世話のはずだ。そんなものをヤかないでも、記号のために使っているこの塵はいずれどこかに行く。

永遠の愛を求めるなんてことは、彼らにしてみれば悪意に他ならないだろうから、彼らにとっても善であるとするのはやめておこう。