ὗς ἐκώμασε. 豚が騒ぐ;傲慢に振舞ふ。


君たちは結局、「物」になりたいのだ。だから、結婚が、仮象的もとい霊的な人間の、肉体の自然における意義を排他する、言語という身体の共有であることを、ひいては王権という存在への所有権の共有であることに気づかない。

そんな君たちから、どうやったら永遠の愛なんてものが手に入るのだろう。いや、愛に、存在意義の共有に、その場限りでも喜びを感じているなら、その感情が善悪の知識つまるところの―一般という意味ではなく、完全という意味での―普遍性、永遠性への感性と要求から生じているものである限り、それは確かに永遠の愛なのだ。だが、いいか、よく聞けよ。その愛は、裏切りを前提としているじゃないか。

殺してくれ。それが君たちの正しさだ。私は、人権家たちの言う価値観の多様性が、目的の相違による無関係という互いに死の関係であること、それを実現するための民主主義的怜悧さは、法における範囲を共通項まで限定するだけのものでしかないことを述べた。そこに法の思想性は、飲み食いぐらいしか残らない。君たちがその肉体以外の言語を有していない「ことば」である動物と同等であるというなら、私はそんな風に永遠の愛を捧げる君たちが虫けらに見える。

人間の記号が存在にはなり得ないことを、人間には「あれ」という神性は備わってはおらず、人間の法の執行が不可能であることをもって、どこにも聖なる土地も遺物も血筋もないことを、ひいてはあらゆる国家の普遍性を否定した。キリストの身体的苦痛というただの用語がそれ自体では何の意味も成さないことに気づけない人間、十字架上で廃棄されたマリア女史とイエスの血縁や、象徴に過ぎないものに存在を求めて「聖変化」なんてものを求めたり、キリスト自身が廃棄した世界の塵を「聖地」と呼んで愛すべき敵を殺しに出かける律法学者たちは、こぞって私を殺しに来てくれなければならない。

ただ残念ながら、身体の言語化によって作成される自我を、自己の言語を移り行く「物」とすることですっからかんにして平安を得ようとする、その死の礼賛故に虚構を作成し放題の日本の宗教は、人間のあらゆる美徳を称賛しながらも結局は全てを記号化されないままのまっさらの「物」として扱うわけだから、私を殺しに来る資格すら失っている。偶像崇拝すらきちんとできないわけだ。塵に還るのだろう。

我々は憎み合うのが正しい。自己の存在意義を不自由や恣意によってでも、真実にすら先立たせて―とはいってもその人間に真実が先立っているのだから、人間が真実に不一致であるのは全く不当なのだが―選択する「ことば」である人間は、ひとたびそれを定めたら全世界と全歴史と全人類に相対せねばならぬ。記号に存在を求めて旧約時代のように法に敗北するもよし、自己の肉体のみを言語とするもよし、虚構を作成して存在の意義を形而上ですでに失うもよし、塵に還るもよし、好きにしたまえ。しかし、そうしたことを語り合えないような、我々が互いに相反していることすら認めることができないような社会の言論の状況とは、狭量以外の何ものでもあるまい。「ここは宗教を語る場ではない」「何らかの思想や信条の批判は禁止」と君たちはよく言う。では、君たちは生涯「人間」を語ってはならぬ。

人間の知性は、人間の言語が、誰かが一生をかけてやっと知り得たことを数時間かそこらで知性に認識させることを、目の当たりにする。それなのに、君たちは何も見ようとはしないし、何も聞きもしない。時々、憎悪に駆られて「彼らが八つ裂きになるのを見るのが楽しみだ」と思うことがあると、正直に言っておこう。