αἰὼν πάντα φέρει. 長年月は万事をもたらす。


時とは、楽譜である。実在という一つの楽器に結びつくことで形象化された意味同士の、恣意的に決定される完全に相対的な関係を、形象によって表現するものである。

その表現は、ある意味において形象を数え、別の意味においても数えて対比させる場合や、形なく目に見えない意味をもって、「場」や「モノ」とする場合、恣意的に選んだある形象の完全な反復―時計―をもって、他の形象と対比させ、「時間」を叙述する場合などがある。

時間の感覚とは、ある意味が結び付けられた形象の、結び付けられた意味ではなく、その形象の意味を数えるところに発するのだが、この「数え」が成立するのは、別の、意味が結び付けられている形象の、形象の意味自体の数と対比させる場合のみである。つまり、あるひとつの意味としての形象を「一拍」とするならば、別の形象としての意味は、何拍数えられるかという、他のなにものからも分離した相対の規則を感じることが、時間を感じるということなのである。

故に、形象の意味内容は、絶対零度だろうと光だろうと、全く「時」に関係がない。数えられているのは、「絶対零度」「光」の意味であって、数える基準となっているのは、別にまったく恣意的に持ってこられる形象の、ひとつの意味を単位としての数だからである。しかも、この「ひとつの意味」が、「絶対零度」「光」「計測用の形象」の、どこからどこまでを切り取るかの判断も、これらの形象に因るのではなく、恣意に因るのである。

一般的に人間が「時間を感じる」場合に用いる「計測用の形象」は、人間の身体の感覚器官である。つまり、ある一定の時間―この場合の「計測用の形象」は、時計の針の動きなどである―にどれだけの形象を感覚器官が感じとるかという、相対の規則に因っている。

「時」を理解するには、いくつかの認識を要する。まず、意味と形の結びつきの間には、全く関係性がない。これは、我々の言語作成における恣意的意味定置が証明している。次に、「実在」とは、どこかに「過ぎ去っていくもの」ではなく、形象によってその形態を変える、ここに在り続けているひとつの形である。「過ぎ去っていく」ように感じるのは、意味が移り変わる形象ごとに定置されており、その意味が実在に結びつくことで形象化され、形象として捉えられているからだ(パリサイ人や律法学者は頑として認めないだろうけれど)。そして、実在に結びつくために、目に見えない意味に数と順序などの「形」固有の属性が付与されるとはいえ、「時」の感覚が対象にしているのは、運動ではなく意味であるということだ。(アキレスと亀の「競争」は、従来のように運動量でではなく、1:1にあらかじめ設定された両者の形象化された運動の意味自体を、同時に数えることによって行われる。そう、1:1を、同時に。)

気付いてほしいのは、自然におけるある形象が起こる時、別の形象がいくつ起こるかという関係性は、形象化された意味の「対比」の問題であるというだけでなく、無限の数字に対する恣意性によってしか、設定されないということである。つまり、物理現象からは、決して演繹されない関係性であり、形象に結びつきながらも、完全に意味の世界の問題なのだ。さらには、ひとつの形として、我々が「実在」と通常呼んでいるものは、形象による形態の変化を有するという点で、「形」としてはともかく「意味」としてはすでに「常にあり続けている」何かではなく、ひいては「時」という楽譜によって用いられる楽器ではあっても、その演奏者ではないのである。

そして私は、意味と形の結びつきである実在を言語と同じ構成であると見るとき、また、「恣意」以外の何ものにも原因を認められない形象と形象の、何ものからも断絶された完全に相対の関係性が機能していることを認識するとき、また意味と形を恣意的に結びつける要素を、私が知る限りでは、身体を言語のために生贄にする人間の精神の類―所詮動物の判断は記憶における順序と順列に因る―にのみ発見するとき、そして、実在における形象の完全な連続には、「実在」と呼ばれるひとつの形の楽器とその変化する形態では決してない、「常に在る何か」が、必然不可欠であることを見るとき、時という楽譜を時間という音符で構成する作曲者と演奏者を考えざるを得ない。どれだけ控え目に言っても、そうした「何か」が、すべてに不可欠なのだから。

そしてその音楽の主題は、その不滅と永遠によって証明される。演奏者に栄光を帰するために死によって残された、「復活」と「永遠」を含むそのことばは、演奏された。何ものにも先立つそのことばのために、かつての創造が始まったからだ。