οἱ δὲ ποθεῦντες ἐν ἤματι γηράσκουσιν.  嘆く人々は一日で老ゆ。


人を愛すること以上に、価値のあることがあろうはずもない。「ことば」としての我々にとって、最も大事なものは、ある主題への意識だ。この意識によって、意味と形象における結びつきに純粋が求められ、あるいは、文脈における整合が求められて、言語・存在が純化されていく。「罪」の謂いは前者の違反、ナンセンスをナンセンスながらもこれを肯定せしめ、意味定置の対象となった形象を破壊―笑いが発露―するのはロジックの正しさ。

憎しみは、主題それ自体の排他である。二千年後の世界にしばらく暮して見ると、誤謬と迷信がわんさと生まれている。義―to be or not to be―の意識が強いほど、喜怒哀楽の感情は強まるが、放縦と姦淫と誤謬と殺人に該当してまっ先に憎しみの対象になるのは、常に自分自身である。

周りを見渡すと、ひどいことに塵のために人が殺され、一つの主題に一義と論理の整合を得られぬ理想に、人間の尊厳たる存在意義が投げ捨てられている。真実の主題は、実在の完全な整合によって確かに唯一だ。それを人間が見出したとして、その主題がその人自身のものとして許されるかどうかは別であるが、むしろ人間の方からものの見事に二千年かけてこれを迷信と誤謬で汚している様を見れば、記号を存在とするところの神性が人間に備わっておらずに実によかったと思う。実在の存在条件がみたされないか、よくて人間の言葉の拙さによって世界が単純化されるのみであるから。

人間の身体以外に存在としての言語は人間に許されてはいないが、この塵の塊でさえ、人間の論理の不整合と多義語の乱用の前には、如何なる人間の知恵とて守りきれるはずもない。そもそも、存在としての言語である身体の一部しか、人間は言及しきれていないのだ。それどころか自らでこしらえた記号でさえ、存在の条件を観念の段階で満たしておらず、たとえば霊なのに形象であり、形象なのに目に見えぬ意味を扱う霊であるというように、理解の条件を見たさぬことが度々ある。そういった努力の結果が存在にはもちろん至らず記号のまま偶像としてそこらに転がっていたり、「霊」の定義をちょろまかして、自分の霊で「霊」―目には見えないが目に見えるものと定義されている―は存在しないとのたまうような、全く正しいのだが全くどうでもいい人間がいたりするのを見ると、もはや殺意も萎えてくる。極めつけては、そうやって意味と形象を結びつけることで、自我と言語を作成することが、自らの身体を虚構化することであるのに、その霊性が、形象上の化学変化の産物だと言うのである。その化学変化における意味と形象の結びつきを成すものが、我々のような霊の恣意であるということを、人々は言語を作成しながらに気付かない。

なるほど、動物にも魂はある。その魂は、その身体それ自体であり、その存在意義は、永遠に目の前の塵である。誰もが、動物の種の区別と発達の原因が、それぞれの動物の主題への普遍の執着であることを見ながら、その結果とされているのは、動物の魂である身体を生贄にして作成される人間の自我・言語・魂である。そうした主張を行う人間は、堂々と衣服―身体の意義を否定するイチジクの葉―を脱いで、手足をばたつかせたり、唸ったりしてみるべきなのだ。

人間の言語がその恣意によって作成されているということを知りながら、なぜ、その恣意による意味と形象の結びつけという自然への反逆手段と芸術を有さず、むしろ自然に完全に属し、自然の内にその存在意義を有する動物から、あるいはその手足のばたつきや唸り声から、それらの意義全てを否定する人間の言語が発生すると、諸君は考えているのだろう。

動物それ自体を見ても、動物の種族内での分化や発達が、その種族が目的としている形象の変化のみならず、眼前の形象が変わり果てても猶そこに結びつけられる種族の主題の永遠―パリサイ人や律法学者並みの定義とロジックへの執着―である限り、動物の種自体の変化は導き出されない。「動物の多様は、それぞれがオリジナルである」という誤謬を抱えていた時代に、「種」の起源が論じられたのは一つの業績であったが、動物の自然に対する執着が変化―純粋な動物が浮気―すると論じられたのは、なぜだろうか。高いところのものを取ろうとするときも、海を渡ろうとするときも、動物はあくまで自らをのみ語り、自らであろうとし、自己の身体以外を語らない。

人間は、他者を語る。愛が他者を必要とするために、人が一人でいるのはふさわしくないのだ。心・言語における結合は、その記号としての非存在により、身体に実在を譲る。愛の表現を求めても、体液を排出したがる動物しかそこにいないのは、まさに常に自然に敗北する芸術の悲劇だ。