εὐδαιμονίη ψυχῆς καὶ κακοδαιμονίη.幸福と不幸とは精神に属する。

人間の自我は、喉からの音波や手の動きから生じる線や点に、恣意をもって意味を定置することによって発生し、発達する。かくして精神は、精神が肉体に意味づけられているのと同様に形に意味を与える芸術活動によって、成り立つ。感性が受け取る限りのナマの観念を、ただのうめき声や、手足のバタツキに結びつけて、自然における精緻なる意味の世界を単純化して魔法と呼び、実に詩的で私的な言語を作成する。人間の自我とは、名付けを行い、名付けにおける意味と形の結びつきの世界に住んでいる、あらゆる事物と事象に相対する、生れながらの幼児なのだ。
この幼児は、意味と形には、何の関係もないことに、はじめは気付かない。あるいは一生涯、気付かない。否、幼児が幼児である限りにおいて、形における連関は意味における連関であり、一つの形象には一つの形象しか許されず、意味と意味の間の連関には、形においても連関が求められる。この無邪気さはそれ自体で、形象に現れ、働きかけるところの法であるが、善悪の知識無き幼児の純粋は、法を知らない。
アダムとその妻が食したものが、まさにこの善悪の知識であった。
意味の世界での活動は、主題の設定に始まり、主題の追及を行う。主題は意味の世界での活動における、すべての理由となり、目的となる。主題からの、また主題への論理の整合は、一義性、つまり純粋の追求に等しい。なぜなら、主題に結びついている論理とは結局のところ、主題の一部であり、主題そのものでもあるからだ。論理の諸部分をイコールでつなげるならばナンセンスではあるが、主題に連関する限り、それは一義の内にある。この一義への一致に普遍かあるいは虚構を求めることが、善と悪である。人間の喜怒哀楽の諸感情は明らかに、ある何らかの主題に対する普遍と虚構の要求に基づいているため、人間の幸福と不幸は、意味の世界のうちに求められる。
その主題の存在は、人間の自我がその身体とする各個人の言語、つまり身体の虚構化された部分に求められる。この身体の部位を言及するために、人間はその観念をまた別の身体の部位や運動―「魂」という線と点や、「ココロ」という音波など―に結びつけている。それが、一つの主題の内に幸福であるか、あるいは不合理と不正の内に不幸である精神の領土である。