γλυκὺ δ’ ἀπείροισι πόλεμος. 戦争はその経験なき人々には楽し。

 諸君は私の最愛の主人を、2000年も前から十字架に架け続けている。私もまた、諸君が、必然として人の最上の価値である尊厳が掛かるところの諸君の主題―塵の上にあるどこかの国の領土かも知れぬ、服に否定される動物の自然かも知れぬ―が何であれ、私の主人が、かつて彼が自らの存在を意味づけた動物の身体ごと排除することにしている、今の世界に結びつくものである限り、いや、諸君の主題が私の主人以外である限り、私は、諸君を、必然として死に定めることになる。
 このことを、諸君は認識したうえで、「平和を!」と叫んでいるのだろうか。ならば、諸君の言う平和とは、永遠と死をそれぞれの善悪の体系に基づいて要求することにより、結局は形而上に戦争状態を維持しながらも、形而下においては決してその表現をしないで、ごく中立的で、すべての文化から均等に距離をとっているような法律の下に、求められる。
 高貴だ、なるほど。それ以上に、言論の自由が、互いの死の要求への忍耐から生まれる品性を要求する状態は考えられぬ。それ以上に、国家普遍と法律が、あらゆる種類の人間に対して中立であるという意味で「民主的」でなければ成立しようがない文脈もあるまい。無論、国家普遍というものは、結局のところ歴史からの文脈や、領土、民族、言語に意味づけられるものであるという性質を持つため、そのような状態が完全化されて世界中がひとつの国家になるという極端なことはあるまいけれど。
 では、そのような社会に生まれた幸運と特権を以て、ここに戦争を宣言しよう。私の主人は、律法の完成のために、世界を燃やしつくす。諸君が住んでいる国も、諸君が家族と民族の絆と呼ぶ血筋も、2000年前から諸君が嬉々として誤謬と迷信を付け加えてきた、「遺物」だの「墓」だの「乳と蜂蜜の流れる土地」も、全部だ。
そんなもののために、あるいは赤い竜の印が旗に入っている国の王様の離婚の成立や、塵である領土や動物の血筋の上に意味づけられる国や民族のために、諸君は人殺しをしてきた。あまつさえ、私の主人の御名をもってだ。
では、次に、諸君の敗北を宣言しよう。そればかりでなく、人間の法における敗北をも、2000年前から引き続いて宣言しよう。よろしいか、人間の言語に、存在はないのだ。神だけが、法を執行する。人間には、動物の身体という存在しか、与えられてはいない。人間の霊は、自我を得るために身体それ自体の意義を排除し、自らのことばをそこに意味づけ、心や魂と呼ばれる自己の言語を形成するが、それでも、それでも、そこにある存在は、ただ動物が一匹いるのみだ。それだけが、人間という意味が意味づけられている存在だ。だから、形而下において形象に働きかける法において、人間は敗北したのだ。ユダヤ人の血筋、ローマの法衣、宗教に先んじるとされるギリシャやロシア、それらの本当の存在は、動物の血と、植物の繊維と、塵だ。人間と人間の法は、自然の創造者ではない。
故に、私の最愛の主人は、弁護する。取税人を、遊女を、異邦人を弁護するためにも、世界は燃やされる。かくして私の家族は、世界とそこにあるすべてを捨てて、私の主人と私を愛しにやって来る。