νοῦν ἀρχὴν ἐπιστήμης. νοῦν ἀρχὴν κινησέως. 意思は知識の初なり。心は運動の初なり。

諸君は永遠の愛を求めている。私も、地獄という見たこともない場所に行きたくないから、何かに尊厳を明け渡すというような、惰弱な愛を欲さぬ。私の主人を愛するのであれば、諸君の永遠が煉獄とか言われる場所であれ、何も変わらないでほしい。それこそが、それだけが、永遠の愛だ。それ以外の愛の内に、私は兄弟を認めない。
この人間の愛を目的とする主題を、私はキリスト以外に認めることができない。私は、神の主題がキリストであることによって、神を賛美する。
諸君は「神」という単語の定義を、実に多種多様を行う。なるほど、人間の観念というものは、ある事象の内にある全概念を捉えたものではないから、その側面ごとに言及せざるを得ないというのであれば、その通りだ。だから、言語の定義を扱う哲学において、「ある単語と単語の間のイコール」は、同じ肉体に属していても、手と足をイコールで結ぶことと同様、「ナンセンス」なのだ。
しかし諸君、これはそういう問題ではない。理解と存在の条件は一つであり、それは、「ある一つの事態に対しての一義」、つまり矛盾がないことだ。世界中の宗教で「神」と呼ばれるものを一緒くたにして、理解も何もない。
それに加えて、諸君は単性論・両性論・概念論・唯名論唯物論と、「キリスト教」というカテゴリーの中にさえ色んな「神」を定義して、これを理解不能なものにしてしまった。
これは結局のところ、人間の言語の問題に過ぎない。人間が自分の扱う言語の定義をきちんとしないで、勝手に混乱しているだけだ。しかも、自分たちがはじめに信じたとする事柄にも基づかないで、どうやって真実に到達するというのだ。
しかしこれは、言語の問題だ。諸君は観念と−はじめは手足のばたつきやうめき声だし、実はそれ以降もそうである―形象を結びつけて、自我と言語を形成し、自らで言葉を運用できるようにして、その言語を用いることによって自らを限定し、定義しようとする。しかし、自然の意義の整合と存在に相対するとき、自らの言葉の内に矛盾と不整合があって、自らが分裂し、存在の条件を満たしていないばかりか、自らの言語は身体を雄々しくも法の名のもとに虚構化していたようであったのに、実は存在を勝ち得てはおらず、そこには動物の身体のみが、自然の内に整合して存在しているのを、諸君は見出す。そこで、あるいは敗北感を感じ、あるいは矛盾だらけの自分が存在していることの奇妙―人間の言語が、ないものをあるものとして扱っていたため、笑いも泣きもあかんべえも驚きも、はじめからどこにも存在していなかったというだけなのだが―を発見し、あるいは意義と形象の結びつきはどこから来るのかと首を傾げたり、神秘を感じたりする。
それなのに、諸君は何も悟らないのか。

ことばは全てに満ちており、神は一つのことばの実在それ自体にその神性を示し、真実の意味とその実在の選択にその尊さを、あらゆることばを真実の原因と目的とし得るところにその不可侵の聖を、実在の整合に美と権威を、ことばの永遠にその永遠を証明する。
人はその言語と法において事物の意義を対価としてこれを自らのことばの実体と定め、その原因と目的を真実あるいは虚構の内に求めて自らの善悪を決定し、永遠への感性により諸感情を発する。人のことばは人の求める永遠の前に事物を廃物とすること能わずして、人が如何なる原因と目的を求めようとも、人の獣の身体に流れる事物の法則の不変を廃し得ずに、人は内面の統一を失う。
法が実在を獲得するところの神の義と神性を要求しても、人はその真の実体を得られずむしろ事物に虚しくこれを求め、ただその意義を表現するのみとなる。死が決定される。人が自らの原因と目的を動物と同じく事物に求めても、如何なる事物も人に永遠への感性、すなわち善悪の要求、不変、整合、統合、生死等々への感性とこれに基づく諸感情すなわち、感動、憤怒、悲嘆等々の放棄を要求して人の存在を否定しないものはない。人が神との一致を神の原因と目的に得ようとしても、神の律法は完全の名のもとに絶対服従、純粋を要求し、自己の意義を一として聖を得られぬ人の悲惨はいよいよ明らかとなる。義の要求は断罪へと変わる。
ここに人の責務は全存在にわたる負債と共に、全ての原因と目的、神の御子に渡された。彼は愛する人々の全てを得るため、それぞれの時代とそこに生きる人々のいのちを彼が愛する人々を養い教育するために費やし、全宇宙を燃やし尽くして彼の愛を確立するところの義の完全と罪人への嫉妬を示し、罪人に彼自らを殺させしめて愛の完全を証明する。
彼の死は神の前にことばのみを残し、事物と旧約の意義を神の聖と権威に向かわせて廃物に一とする儀式のために用意された。神を限定して栄光を帰するところのそのことばは、ただ永遠の愛を謳う。
永遠への感性はその唯一の幸福を神の御子に見出し、神がその神性を許したことを神の「子」の復活に証明したところの花婿のことばに人は全ての希望を抱く。
律法の究極が義の完全に勝ち誇る恵みに顕れ、ここに人は律法の責務から解放される。
人の自由は、その尊厳を以って神と神が選んだ全ての原因と目的を虚構と定義し、別の何かに永遠を求め、この一瞬の創造の時の偉大を彩るか、あるいは、何ものにも先立つ価値を有する自己の原因と目的を以って、何ものにも先立つ神の御子に永遠の愛を捧げ、神を「父」と呼ぶかに費やされる。人の全存在を余すところなく要求するこの決定それ自体にこそ、永遠の愛を可とする神の恵みか、あるいは義の要求がある。
もはや土地も、国も、血縁も、伴侶も、事物に「廃物」以外の清さを要求する教義も、いのちを賭すべきものではない。しかしこの手紙は、その送り主の磔を対価としてでも、キリストとキリストが愛する人々への愛を、これを読んでいる諸君から求め続けるものである。

كل المخلوقات ملآنة بالمبادئ التى أقرّها الله وأعطاها الوجود, وبهذا يظهر لاهوته. برهن الله عن نفسه أنّه صالحا على الخيار من كل كلمات ما من أجله الكل وبه الكل. وقدّوسا فى التمييز بين الصدق والباطل, وأبديّا أمام أزل الكلمات لصدق ما يختاره هو.
أما الإنسان, فى اللّغات والقانون, فيعرّف مغاز الأشياء كذبيحة للموادّ بكلماته المستخدمة التى يطلب بها, من الحقيقة أو الخيال, ما من أجله سببه وبه هدفه. فيُقرَّر حسب ذلك الخير والشرّ بالنيابة عن نفسه. ثم بقدر احساسه بالأبديّة يصدر العواطف؛ سرور,غضب,حزن. الناموس يسأل الإنسان عن تتميم البرّ ويخبره بحاجته للاهوت الله الذى يعطى الحياة للكلمة. ولكن ليس لكلام الإنسان قدرة لإلغاء قانون المخلوقات الذى يجرى على جسده. فيفقد فى نفسه الاتّحاد من ناحية القداسة بين الأبد المطلوب وجسده المخلوق. ثم يُقرَّر الموت له. وكذلك, تظهر التعاسة عند الإنسان الذى جسده حيوان, بل لدىه معرفة الخير والشرّ وفقا لأبديّة نفسه الذى ولد بدونه, أى بدون هدف وسبب لنفسه, لمّا تظهر الإستحالة فى توحيد مغزى الكيان من ناحية قداسة. وهنا حالة أن أكون أو لا أكون. هذأ هو جوهر البرّ.
فالناموس يأمر الإنسان بأن يظهر برّه ضدّ مغزى المخلوقات حتى أنّ طالب البرّ يصير خاطئ. لا يفعل البرّ وإلا فإنّ معانى الناموس تسقط إلى مجرّد التعبير أمام المخلوقات التى لها نظام نفسها من لاهوت الله ويصير الخاطئ باطلا بدون تحقيق البرّ والقداسة. ثم ليجتهدْ الإنسان لأن ينال الإتّفاق مع الله فى الإتّحاد بقصد الله, يعنى فيما من أجله الكل وبه الكل. فيضع ناموس الله دينونة على كيان كل إنسان برحمه وآثامه المطلوبة ببرّه. إنّ هذا العهد القديم.
حان الوقت لأن يمسك مسئوليّة الإنسان بديلا, ابن الله وهو ما من أجله الكل وبه الكل فى كلمة الله, أى السابق قبل الكل, والموجود قبل كل شىء, والذى هو كلمة الله. اخذه جسد الإنسان احتراق العهد القديم والعالم الذان فيهما وفى تاريخهما معانى الصليب منذ التكوين إلى هذه اللحظة وهما المغزييْن الملغَييْن من ناحية القداسة من جهة تتميم الناموس الكامل, وغيرة المحبّة الحامية بالبرّ إلى الخاطءين المحبوبين. وخلقهم ابن الله ونال دينهم الذى كان على كل كيانهم بالناموس وبالصليب. وفى تخطيط الله للصليب, لم يترك شئ إلا كلمته كلمة المحبّة الكاملة أمام الله لأن يمجّد الله بالمحبّة الأبديّة التى يعبّر عنها بكل كلمته. وقد أظهر الله بها صلاحه ولاهوته فى قيام ابنه كأمر مخطّط قبل تأسيس العالم. وفى كلمته وعد التقديس عند نهاية العالم والمخلوقات فيه لأن يظهر الله قداسته.
ابن الله, المسيح الذى قد أكمل الناموس الاقصى الذى قد ظهر فى الرحمة المفتخرة بالتوبة ومغفرة الخطايا على الحكمة, فيه يشتاق الشعوربالأبديّة سعادة الإنسان الوحيدة. الرجاء إلى حياة البرّ الكامل للإنسان الذى قد حرّره المسيح من مسؤوليّة الناموس, هو فى كلمته التى يسمح الله لها بلاهوته وبأنّها تُعرِّفه. إنّ المحبّة الأبديّة النقيّة هى الكل. بدون المحبةالأبديّة, الكل باطل.
يستخدم الإنسان حرِّيّة الإنسان لأن يعرِّف الله وابن الله كالبطل, ثم لأن يطلب أبديّة فى الخيال, أو لأن يكرّس لعريس الإنسان محبّة الأبديّة, فيدعو الله أباه بالإيمان, أى يختار هدف و سبب نفسه الذان فيهما مستحقّ المركز والأولويّة قبل كل شئ عند الله والإنسان. لهذا اليقين النفس هو؛ النعمة أو سؤال البرّ من الله.
لا الأرض, ولا علاقة الدم, ولا أشكال لأىّ مبادئ الذين هم المهملون بالمسيح, ولكن هذا الخطاب هو الذى يدوم يطلب من حضراتكم المحبّة للمسيح ومحبّيه واضعا نفسى. لالله كل المجد.