πάντα ῥεῖ. 万物は流転す。

動物の判断は、人間のように、言語の作成つまり、紙や金銀の意義を廃して生存と生活の権利としての金銭を具現化するように、形象を虚構化して、そこに観念のcategorizationを行うことに基づくものではない。動物の判断は、記憶における順列と順序に基づいており―だから、チンパンジーの「言語実験」は、人間の合図が「先に」なければ、成立しないのだ―、動物の感情は、前後・上下・先後という、形象上の観念に基づいている。これらの判断の仕方こそが、家畜的なものであり、その理に基づくのが競争心や、野卑さと呼ばれる、畜生のためにある感情である。かくして動物の判断と感情は、形象とともに移りゆく。
動物の判断と、その固有の感情の体系は、人間の存在と身体もまた動物に過ぎないから、人間にも共通している。単純労働での思考や、いわゆる「幼児性」や「へつらい」といった、特に何の理由もないのだが、とにかく自分が優先的でなければ我慢できなかったり、あるいは仰向けに腹を出さんばかりに人の後ろに回ろうとしたりする癇に障る仕方がこれである。

それ以外の人間の感情には、言語上のものと、善悪の知識、つまるところ、永遠と死における感性によるものがある。

1.笑い
新しい観念の肯定。またそれによる自我更新の作用。更新による排出要素が大きいほど、程度も大きくなる。自我・言語上におこるため、作用の存在はどこにもない。ブラックジョークなどの場合だと、対象を「ある」と「ない」のどちらに肯定するかの葛藤が起きるため、吐き気が混じる。学校卒業時などには、「ある」を肯定するか否定するかの葛藤が起きるため、泣きが混じる。サーカスでは、「ない」としていた観念を否定し、「ある」と肯定せざるを得ないから、驚きとともに自我更新が起こる。

2.吐き気
新しい観念の「ない」を肯定すること。またそれによる自我の保護作用。排出要素が大きいほど、程度がひどくなる。自我・言語上におこるため、作用の存在はどこにもない。嘲笑などの場合だと、相手に属する観念を「ない」と肯定すると同時に、そのプロセスを「ある」と肯定しているため、笑いが加わる。吐き気のすることを無理に肯定しようとすると、その笑いはこわばっている。暴行を受けるなどの場合、暴行という事態の「ない」を肯定するが、暴行を受けている自己の「ある」を否定するため、吐き気と涙が混じる。人食いや獣姦などという場合、自我は「ない」を肯定しようとするのだが、事実が「ない」を否定するので、自我は受け入れざるを得ず、「ない」の肯定と否定の間の葛藤に、吐き気と驚きが混じりあう。

3.泣き
既存の観念の「ある」を否定すること。またそれによる自我崩壊の作用。自我・言語上におこるため、作用の存在はどこにもない。学校卒業時などに、「ある」と肯定する新規の観念が無く、既存の古くなった自我への依存が強ければ強いほど泣く。逆に、学校在籍中の自我が既にして将来の環境に合わせたものであり、もはや学校が半分抜け殻になっている場合、泣きではなく笑いが生じる。裏切られた場合など、裏切りに「ない」を肯定する同時に、既存の環境の否定を行うなら、ごく矛盾なく、吐き気と泣きが起こる。得体の知れない何かに遭遇した時など、「ある」も「ない」も否定する矛盾した作用が生じる。自我が弱いほど、涙まみれの大きな驚きとなる。

4.驚き
既存の「ない」の否定。またそれによる観念の自我への文脈無き受容作用。自我・言語上におこるため、作用の存在はどこにもない。サーカスでの驚きは、自我が「ない」としていたものを芸が否定し、「ある」を肯定させて笑わせるプロセス上にある。同性愛者は、事実でもって「ない」を否定してくれるが、私の自我では「ない」を肯定して、吐き気を催させておこう。突然のプレゼントは、自我における「ある」(自我における文脈)を否定させ、自我における(プレゼントの)「ない」を否定する。


言語における肯定・否定による作用と善悪の知識に基づく感情を、組み合わせてみよう。

1 事態の普遍を希望して、自我(ことば)が、「ある」を肯定すると、喜びと笑い。
たとえば、絶頂。
2 事態の普遍を希望して、自我(ことば)が、「ない」を肯定すると、喜びと吐き気。
たとえば、憧れ。
3 事態の普遍を希望して、自我(ことば)が、「ある」を否定するときは、喜びと泣き。
たとえば、自己否定を伴う感動。
4 事態の普遍を希望して、自我(ことば)が、「ない」を否定するときは、喜びと驚き。
たとえば、歓迎すべき発見。

5 事態の死を希望して、自我(ことば)が、「ある」を肯定すると、怒りと笑い。
たとえば、好敵手。
6 事態の死を希望して、自我(ことば)が、「ない」を肯定すると、怒りと吐き気。
たとえば、悪口。
7 事態の死を希望して、自我(ことば)が、「ある」を否定するときは、怒りと泣き。
たとえば、幻滅と失望。
8 事態の死を希望して、自我(ことば)が、「ない」を否定するときは、怒りと驚き。
たとえば、子どものいたずら。

9 事態の普遍に絶望して、自我(ことば)が、「ある」を肯定するときは、悲しみと笑い。
たとえば、去りゆく者へのまなざし。
10事態の普遍に絶望して、自我(ことば)が、「ない」を肯定するときは、悲しみと吐き気。
たとえば、ゴミ屑へのまなざし。
11事態の普遍に絶望して、自我(ことば)が、「ある」を否定すると、悲しみと泣き。
たとえば、絶望。
12事態の普遍に絶望して、自我(ことば)が、「ない」を否定すると、悲しみと驚き。
たとえば、呆れ。

13事態の死に絶望して、自我(ことば)が、「ある」を肯定するときは、おそれと笑い。
たとえば、戦慄。
14事態の死に絶望して、自我(ことば)が、「ない」を肯定するときは、おそれと吐き気。
たとえば、やりきれない現実。
15事態の死に絶望して、自我(ことば)が、「ある」を否定すると、おそれと泣き。
たとえば、必死の駄々こね。
16事態の死に絶望して、自我(ことば)が「ない」を否定すると、おそれと驚き。
たとえば、芸術家にとっての自然。


「進化」の名のもとに形象がいかに変化しようとも、名付けにおいて意味と運用可能な形象を結びつけて言語を作成し、信仰においてどこにも存在せぬ自我と理性のために理由と目的を設定し、整合に美を感じて論を展開し、存在に義と勝利を希望して法における闘争を自然に対して申し出て、その形象を自らの法の下に奪おうとし、あるいは意味と形象の結びつきを存在へと昇華させる神秘の前に敗北する人間の霊と、その意義が結び付けられている動物の身体との間には、何の整合もないのだ。

このような話題が成立するのは、ただ永遠と死の感性を有する存在の間だけ出るというのに、諸君はこの感性によって喜び怒り悲しみ恐れながらこの感性さえも否定し、この感性の土台となっている言語、すべての創造の土台となる事態への意味の結びつけをも、言語作成の結果である自我において笑い泣き驚き、しまいにあかんべえまでして、自分は動物の家族であると言って否定するのか。そうすることですら、動物には不可能なのに。

無知であるにもかかわらず自らを動物まで貶めることが可能であるのに、どうして完全と永遠の愛を願うということすらできないのだ。君たちは、完全なものはつまらぬと言う。人間よ、完全を求めて愛に忙しいほうが、動物であって塵として舞うよりも、退屈ではない。そもそも、人間は、全世界とその意義に対して、永遠に幼児なのだから。幼児は決して退屈せず、世界が純粋でなければ、泣きだしてしまうものじゃないか。