ἴδε ὁ ἄνθρωπος.


「神」の存在証明をしてあげよう。それは、「神」の定義による。

「神」をことばと定義することによって、証明は完了する。

概念は目に見えないものであって、形がなく、すべての実在に完全に共通しており、永遠だ。故に、それを語り、実在を与える存在「神」の存在もまた永遠だ。

常に何らかの実在があるため、その実在が「無」だとしても、そこに概念がある。ここに、無と有は同列の実在であり、どちらかがどちらかを生み出すなどということはない。故に、永遠に実在の原因として実在を決定をする「何か」が導き出される。

ところで、「存在」ということを、「意味が結びついた形象」とすると、私が証明する「存在」とは同一事態において重複を起こしてしまい、その多義性によって、諸君を混乱させてしまう。そういうわけで、「存在」の定義はそのままにして、概念や神は、「ある」ということにする。

神が永遠に「ある」ということは証明したから、次に、その唯一性を証明しよう。

真実は一つだ。よって、その限定対象も、ひとつと数えられる。証明完了。

人間は意味と形象を結びつけて記号を作成するが、それを存在とすることはできない。「それ」こそが、へブル人への手紙で言及される、「神の神性」だ。だから、すべての実在に、これが証明されている。言及が実在となるということは、それ自体が言及者の全知と全能の証明になる。全知だというのは、すべてがその言及者の言及対象だからであり、全能だというのは、「どのことばに実在を与えるか」という次元の問題は、科学の一歩手前の段階であって、すべてが可能態となっているからだ。事実、すべてにことばが満ちていることを、一言の言及で証明できる。「すべて。」

ただし、条件がある。その条件は、真実とそれが限定する「何か」が唯一でなければならないことを証明する。それは、一事態に対しては、一つの意味しか許されないということだ。その例は、上記の「存在」という単語の定義を挙げよう。そう、存在および理解の条件とは、その意義の純粋と一つの「場」だ。だから、たとえひとつの真実というオーケストラを言及するのに多くの精神が必要とされても、そこにはたったひとつの完全に整合した論理が、その一義性を以て、その指揮者を唯一としているのだ。

論理とは、一つの命題の内に成立する。だから、「神」とは何かを述べるのには、「唯一しかない実在の原因。実在が今ここに実在している以上、実在に不可欠であり、概念が永遠である以上、永遠に「ある」何か。」と述べる以外に、実在の命題、つまり真実の理由と目的を述べることができる。

「キリスト」とは、十字架上に残った「ことば」であって、彼がそのことばの内に「滅び去る」とした人間の体ではない。その「ことば」に神が実在を与えた結果が、彼の復活だ。神の御子とは、そのことばを述べた一つの知性だ。彼が人間であったということを、神が彼という意義を人間の身体に結びつけて、動物の身体を彼の存在としたということは、彼が世界を血縁もあらゆる国家の領土もまとめてすべて燃やし尽す理由にはなっても、彼を定義する内容にはならない。

ところで、諸君、君たちもまた―無力な―「ことば」だ。ひとつの主題のもとに、自己の尊厳を賭し、そこからの論理がそのまま諸君の善悪の体系になる。永遠と死の要求が、諸君の主題にそぐわないものに遭遇した時や、自然の普遍に自らが纏っている布切れが敗北する時に諸君の喜怒哀懼の感情の原因になっている。諸君は神の神性と実在を求めて塵を領土、動物の血脈を家族と民族の絆と呼び、神とキリストを十字架に張り付ける。人の族は、神の族に近い。

だからこそ、上記のことが諸君には理解できる。そればかりではなく、人間には実在を言及した「何か」ほどの英知も、神の神性を要する法の執行力もないことも、愛や「家族」というものが動物の血脈の上にではなく、存在の理由と目的としてのひとつの命題の内に成立するものだということも、思い至るはずだ。

私は、諸君の永遠の愛を、私の最愛の主人のために、欲する。