οὐκ ἐξάγουσι καρπὸν οἱ ψευδεῖς λόγοι. 虚言は果実を生ぜず。


人間の定義が、人々の会話によって練磨されることは、文化的価値の最上であり、自らの信念のもと法を打ち立てんとして敵と自然に宣戦することは、暴力の野蛮を英雄的なものにする。なんとなれば、それらはもはや、形而上の問題の、形而下の事象をもっての解決ではなく、神の神性を希求する芸術性だからだ。
しかし、分別によって生まれる気分や感情が分別を支配し、法が順序と順位であるときは、人は笑うべきだ。何故だ。
「ことば」ではあっても、その語る言語とその順序に選択肢が許されていない昆虫や、記憶における物事の順序や順列から、ある程度の―語るための―言語の選択が許されているにはしても、その言語の主題も存在も、自らの身体以外に許されていない動物には、笑うことは許されていない。
笑うことは、永遠と死との要求に基づく諸感情とも一致していない。人は、喜ぶべきときにも、間違いを発見した時にも、笑う。ただ、「何か」を肯定していることは、確かに感じ取れる。
それでは、人間が身体の―あくまで自己の身体の範囲内のみで―自然における意義を廃して、自らが恣意性をもって意味を―手足のばたつきや、うめき声に―定置することで、自らの言語・存在を自らの主題と意義において書き換えることによって、自我と虚構化された身体の―「魂」と呼ばれている―部分を発生・発達させるところに、笑いの発生原理が見出されるはずだ。つまり、実は身体の自然における意義と存在が失われていないことによって、笑いとはもはや、身体現象ではないのだ。それはちょうど、紙や貴金属がどこにもなくなったものとされ、ある王権―いち所有権―下における生存と生活の権利が具現化された貨幣と同じように、どこにも存在しない。
それならば、笑いは、観念と形象の結びつきのはざまに起っている。人間の言語は、その本来の存在が動物の身体であるために、厳密には「ことば」ではないのだが、しかし、自らの内に存在(および理解)の条件―一義性―を満たそうとする。つまり、同一事態における意味の重複が避けられる。そのため、多義性は文脈において排除され、芸術は自然の意義を爆発させる。
ある新しい観念は、既存の言語の形象を、すべて虚構化する。どの言葉も、新しい観念をその器に受容できないからである。古い袋は破れてしまう。だから、古い袋がその内包する観念を既に有しているところに、新しい観念を入れるならば、ナンセンス―詩情であり、相反であり、多義性―が肯定される。古い袋は、破れてしまう。