Mアゴーリ氏へ

 ノン。神は形象によって限定されるが、そこに神の意義が結びついているわけではないため、形象をもって、「神の存在」と呼ぶことはできない。たとえば、我々の存在は我々の肉体だが、ここにさらに別の意義が加わるとなると、意味においての重複と、意味の形象への定置における重複が起こってしまう。
 なるほど、神を「ことば」と定義した以上、全実在がその言及対象であることによって全知、その実在それ自体によって全能を証明しているが、実際に起こっていることの内には、善意であれ悪意であれ、人間の意思を原因とする出来事がある。となれば、善人にであれ悪人にであれ、神は愛を注いでいるのだ。否、注がざるを得ないのだ。
 しかし、それが神の楽しみかどうか。その主題にかなって、その喜びかどうか。
 雅歌における交わりか、あるいは強姦か。
 もし君が私を楽しませたいなら、私の主人の愛に応えるべきだ。その限りでは、君の挨拶ひとつでさえ、私の心を満たすことができるはずだ。他はすべて凌辱だ。われわれ人間は、すべての事を永遠と死に分別するのだから。