ἄσβεστος γέλως. 打ち消しがたき大笑。


私は、侮辱的な諸君を憎む。

何者でもないのに喜び、怒ろうとするなど、すべてに対する侮辱に過ぎない。感情が生じるたびに、何かを生かし、あるいは殺しているのだ。それで永遠も死もどちらもござれとなれば帳尻は合うが、そこにも永遠の要求は働くので、結局のところすべてに死を要求していることになる。

思い切って今度は哲学者の混沌に人間の普遍を求めると、一つの平安が得られる。どうやらそれは、この国の伝統的な善悪の感性の処理と同種のものだ。つまり、前者においては何ものも自己の存在意義・主題として認めないのだから、善悪の分類が生じない。永遠にも死にも何ものも値せず、無内容が求められるというわけだ。あるいは後者においてあらゆるものを肯定してその悲惨を人間の普遍とすれば、個人の感情としては、この上なく清浄さが保たれる。ただし、そこに存在と理解の条件である一義性・純粋は失われている。

それでもこれらに社会性が獲得されるのは、主題の内容が無内容であれ混沌であれ、主題が設定される時点で人間の尊厳の消費と善悪の―あってないような―分類がなされるからだ。「何を信じているか悟れないでもいいから、信じて他人のために生きよう」というのも、この限りでは正解だ。人々は何だかよくわからない主題における一致と、あらゆるものを包み込んで無分別にした善悪の体系の内に、和合と誠実さを獲得する。日本的微笑の完成だ。笑いとは、認識の不可能、即ち感情の限界だ。

諸君、何者でもないというなら、喜ぶな。悲しむな。怒るな。恐れるな。すべて永遠と死の要求に基づくものだから。それだから、何ものでもなかったアダムとその妻は、すべてに対して侮辱的な存在になったのだ。人間を主題とするなら、殺意だけが、人間に対してふさわしい。何が、人間を殺すにふさわしいか。永遠に「ある」とされたキリスト。赦しとは、対象の死と復活の受容である。

私はキリストと呼ばれる以前の、旧約時代の彼のことばに自らの憎しみの甘さを覚え、キリストの愛の偉大に自らの憎しみの死を見い出す。