ἐν θηρίοις δὲ καὶ πιθήκοις ὄντα δεῖ εἶναι πίθηκον. 獣や猿の中にあるときは、[獣や]猿たるを要す。

人間は完全になりえぬから、唯一完全なものだけが、人間に完全な柔和を与えてくれる。

「宗教がなければ」、という言葉をよく聞く。そういう人間の内面は、ぐしゃりと潰れたトマトのようだ。信じることで初めて知ることを始める人間の自我を否定している。何かを信じる人間の全てを、その内に殺している。それでいて、真実と法を求めることが出来ないほどに女々しい。

戦争は悲惨だ。ただし、それが王権・一所有権を振りかざして言論の決着とするような野蛮である場合には。法を知らぬ者は、ただ浅薄に、用語だけを見つめる。

真実は、全でなければ真実ではない。法は一でなければならぬ。同一事態に複数の法の要求があるならば、法が形相上に働く暴力である以上、決着がつけられねばならぬ。何者でもないものは塵に帰らねばならぬ。人間の芸術においてさえ、全ては表現されねばならない。いわんや裁きにおいては。

法を要求する、意味と形相の双方の領域を、人々の一致できる範囲まで限定することによって得られる「平和」は、沈黙という停戦であっても、終戦ではない。ましてや、もはや何のことばも求めず、自我を拒否して、「実体」と呼ばれる「形相・形・形象」からも意味を除くことによって作成される虚無の観念を真理と呼ぶことは、何の悟りでも救いでもない。「夢」や虚構の作成に節操節度が無くなるというだけだ。「虚無」を、塵を自らのことばとして選んだ人々は、塵にならねばならぬ。


信仰とは、「あれ」という神性の欠片である。私は、私の「あれ」からキリストを除くことはしない。人間の配偶者は、彼以外にふさわしくない。

τοῦτο κἂν παῖς γνοίη. これは小児なりとも知れるならん。


君たちの愛は、受け入れられるにはあまりに不実だ。

おいしいものを一緒に食べること、おしゃべりしたり働いたりすること、冗談を言ったり騒いだりすること、玉遊びなどの虚構に善悪の感性を運用してみんなで泣いたり笑ったりすること、音楽などの記号表現の美醜を感じること、共通の知識を求めること、優劣を競うこと、際限なく形象の力強さや距離・速さを求めること、数の多さを価値とし質として追い求めること、体液を排出すること。

これらは、君たちが愛の成立のために日々目的に設定しているものだ。「一緒にいられるなら、原因も目的も実は何でもいい。」という言葉は君たちのお気に入りだ。たしかに、それで愛の表現だけが抽出されているのだから、それは素敵なことではある。だから、君たちは日々を誤魔化すことができる。

目的が空しければ、そこに成立した愛もまた空しくなることを、君たちは知っている。

君たちのすばらしい愛は、空しくてとても痛ましい。ふざけていて、とてもつまらない。

だから、神は君たちに嫉妬する。

ἄσβεστος γέλως. 打ち消しがたき大笑。


私は、侮辱的な諸君を憎む。

何者でもないのに喜び、怒ろうとするなど、すべてに対する侮辱に過ぎない。感情が生じるたびに、何かを生かし、あるいは殺しているのだ。それで永遠も死もどちらもござれとなれば帳尻は合うが、そこにも永遠の要求は働くので、結局のところすべてに死を要求していることになる。

思い切って今度は哲学者の混沌に人間の普遍を求めると、一つの平安が得られる。どうやらそれは、この国の伝統的な善悪の感性の処理と同種のものだ。つまり、前者においては何ものも自己の存在意義・主題として認めないのだから、善悪の分類が生じない。永遠にも死にも何ものも値せず、無内容が求められるというわけだ。あるいは後者においてあらゆるものを肯定してその悲惨を人間の普遍とすれば、個人の感情としては、この上なく清浄さが保たれる。ただし、そこに存在と理解の条件である一義性・純粋は失われている。

それでもこれらに社会性が獲得されるのは、主題の内容が無内容であれ混沌であれ、主題が設定される時点で人間の尊厳の消費と善悪の―あってないような―分類がなされるからだ。「何を信じているか悟れないでもいいから、信じて他人のために生きよう」というのも、この限りでは正解だ。人々は何だかよくわからない主題における一致と、あらゆるものを包み込んで無分別にした善悪の体系の内に、和合と誠実さを獲得する。日本的微笑の完成だ。笑いとは、認識の不可能、即ち感情の限界だ。

諸君、何者でもないというなら、喜ぶな。悲しむな。怒るな。恐れるな。すべて永遠と死の要求に基づくものだから。それだから、何ものでもなかったアダムとその妻は、すべてに対して侮辱的な存在になったのだ。人間を主題とするなら、殺意だけが、人間に対してふさわしい。何が、人間を殺すにふさわしいか。永遠に「ある」とされたキリスト。赦しとは、対象の死と復活の受容である。

私はキリストと呼ばれる以前の、旧約時代の彼のことばに自らの憎しみの甘さを覚え、キリストの愛の偉大に自らの憎しみの死を見い出す。

ὁ μὴ ὢν μετ’ ἐμοῦ κατ’ ἐμοῦ ἐστίν. われと共にあらぬ者はわれに反する者なり。


あなたの全てが欲しいのです。あなたの尊厳は世界の何よりも重く、あなたと家族になるために、私の主人は世界を燃やすのです。あなたが私の主人を殺しても、あなたが淫蕩な遊女であっても、私の主人があなたの負債によってあなたに要求するのは、あなたと共にいることなのです。それ以上に価値のある事は、この世界にありません。

「ことば」であるあなたのすべては、あなたの主題です。故に、あなたの尊厳は、神の尊厳と同種です。故に、あなたが主題の一致において神との愛―「ことば」の結合―を成立させるならば、死に定められるのはあなたではなく、あなたの肉体と自然です。故に、あなたの恥と罪は、完全に弁護されます。あなたよりも価値のある事物など無いのです。善悪とは、主題に基づくものですから、悪はあなたではなく、あなたの肉体と宇宙の全てです。

私の主人以外に、あなたの尊厳に値する主題はありません。神が、この方をすべてに先立たせ、すべての原因と目的としたからです。私の最愛の主人は完全であるために、あなたの全てを求めています。すべての内で最も憎むべきことをされても、私の主人はあなたにいのちを用意しました。あなたは義であり知であり法である神のことばを十字架に打ち付けながらも、弱く、愚鈍で、法においては完全に無能です。私の主人を、あなたが愛に燃えて全てとするために、人間はすべてそうなのです。ですから、あなたは弁解の余地なく、世界に唯一許された永遠の愛のためだけに、存在すべきなのです。

キリストとあなたの愛が成立すること以上に偉大なことはありません。私の主人の求婚を受けてください。

οἱ δὲ ποθεῦντες ἐν ἤματι γηράσκουσιν.  嘆く人々は一日で老ゆ。


人を愛すること以上に、価値のあることがあろうはずもない。「ことば」としての我々にとって、最も大事なものは、ある主題への意識だ。この意識によって、意味と形象における結びつきに純粋が求められ、あるいは、文脈における整合が求められて、言語・存在が純化されていく。「罪」の謂いは前者の違反、ナンセンスをナンセンスながらもこれを肯定せしめ、意味定置の対象となった形象を破壊―笑いが発露―するのはロジックの正しさ。

憎しみは、主題それ自体の排他である。二千年後の世界にしばらく暮して見ると、誤謬と迷信がわんさと生まれている。義―to be or not to be―の意識が強いほど、喜怒哀楽の感情は強まるが、放縦と姦淫と誤謬と殺人に該当してまっ先に憎しみの対象になるのは、常に自分自身である。

周りを見渡すと、ひどいことに塵のために人が殺され、一つの主題に一義と論理の整合を得られぬ理想に、人間の尊厳たる存在意義が投げ捨てられている。真実の主題は、実在の完全な整合によって確かに唯一だ。それを人間が見出したとして、その主題がその人自身のものとして許されるかどうかは別であるが、むしろ人間の方からものの見事に二千年かけてこれを迷信と誤謬で汚している様を見れば、記号を存在とするところの神性が人間に備わっておらずに実によかったと思う。実在の存在条件がみたされないか、よくて人間の言葉の拙さによって世界が単純化されるのみであるから。

人間の身体以外に存在としての言語は人間に許されてはいないが、この塵の塊でさえ、人間の論理の不整合と多義語の乱用の前には、如何なる人間の知恵とて守りきれるはずもない。そもそも、存在としての言語である身体の一部しか、人間は言及しきれていないのだ。それどころか自らでこしらえた記号でさえ、存在の条件を観念の段階で満たしておらず、たとえば霊なのに形象であり、形象なのに目に見えぬ意味を扱う霊であるというように、理解の条件を見たさぬことが度々ある。そういった努力の結果が存在にはもちろん至らず記号のまま偶像としてそこらに転がっていたり、「霊」の定義をちょろまかして、自分の霊で「霊」―目には見えないが目に見えるものと定義されている―は存在しないとのたまうような、全く正しいのだが全くどうでもいい人間がいたりするのを見ると、もはや殺意も萎えてくる。極めつけては、そうやって意味と形象を結びつけることで、自我と言語を作成することが、自らの身体を虚構化することであるのに、その霊性が、形象上の化学変化の産物だと言うのである。その化学変化における意味と形象の結びつきを成すものが、我々のような霊の恣意であるということを、人々は言語を作成しながらに気付かない。

なるほど、動物にも魂はある。その魂は、その身体それ自体であり、その存在意義は、永遠に目の前の塵である。誰もが、動物の種の区別と発達の原因が、それぞれの動物の主題への普遍の執着であることを見ながら、その結果とされているのは、動物の魂である身体を生贄にして作成される人間の自我・言語・魂である。そうした主張を行う人間は、堂々と衣服―身体の意義を否定するイチジクの葉―を脱いで、手足をばたつかせたり、唸ったりしてみるべきなのだ。

人間の言語がその恣意によって作成されているということを知りながら、なぜ、その恣意による意味と形象の結びつけという自然への反逆手段と芸術を有さず、むしろ自然に完全に属し、自然の内にその存在意義を有する動物から、あるいはその手足のばたつきや唸り声から、それらの意義全てを否定する人間の言語が発生すると、諸君は考えているのだろう。

動物それ自体を見ても、動物の種族内での分化や発達が、その種族が目的としている形象の変化のみならず、眼前の形象が変わり果てても猶そこに結びつけられる種族の主題の永遠―パリサイ人や律法学者並みの定義とロジックへの執着―である限り、動物の種自体の変化は導き出されない。「動物の多様は、それぞれがオリジナルである」という誤謬を抱えていた時代に、「種」の起源が論じられたのは一つの業績であったが、動物の自然に対する執着が変化―純粋な動物が浮気―すると論じられたのは、なぜだろうか。高いところのものを取ろうとするときも、海を渡ろうとするときも、動物はあくまで自らをのみ語り、自らであろうとし、自己の身体以外を語らない。

人間は、他者を語る。愛が他者を必要とするために、人が一人でいるのはふさわしくないのだ。心・言語における結合は、その記号としての非存在により、身体に実在を譲る。愛の表現を求めても、体液を排出したがる動物しかそこにいないのは、まさに常に自然に敗北する芸術の悲劇だ。

αἰὼν πάντα φέρει. 長年月は万事をもたらす。


時とは、楽譜である。実在という一つの楽器に結びつくことで形象化された意味同士の、恣意的に決定される完全に相対的な関係を、形象によって表現するものである。

その表現は、ある意味において形象を数え、別の意味においても数えて対比させる場合や、形なく目に見えない意味をもって、「場」や「モノ」とする場合、恣意的に選んだある形象の完全な反復―時計―をもって、他の形象と対比させ、「時間」を叙述する場合などがある。

時間の感覚とは、ある意味が結び付けられた形象の、結び付けられた意味ではなく、その形象の意味を数えるところに発するのだが、この「数え」が成立するのは、別の、意味が結び付けられている形象の、形象の意味自体の数と対比させる場合のみである。つまり、あるひとつの意味としての形象を「一拍」とするならば、別の形象としての意味は、何拍数えられるかという、他のなにものからも分離した相対の規則を感じることが、時間を感じるということなのである。

故に、形象の意味内容は、絶対零度だろうと光だろうと、全く「時」に関係がない。数えられているのは、「絶対零度」「光」の意味であって、数える基準となっているのは、別にまったく恣意的に持ってこられる形象の、ひとつの意味を単位としての数だからである。しかも、この「ひとつの意味」が、「絶対零度」「光」「計測用の形象」の、どこからどこまでを切り取るかの判断も、これらの形象に因るのではなく、恣意に因るのである。

一般的に人間が「時間を感じる」場合に用いる「計測用の形象」は、人間の身体の感覚器官である。つまり、ある一定の時間―この場合の「計測用の形象」は、時計の針の動きなどである―にどれだけの形象を感覚器官が感じとるかという、相対の規則に因っている。

「時」を理解するには、いくつかの認識を要する。まず、意味と形の結びつきの間には、全く関係性がない。これは、我々の言語作成における恣意的意味定置が証明している。次に、「実在」とは、どこかに「過ぎ去っていくもの」ではなく、形象によってその形態を変える、ここに在り続けているひとつの形である。「過ぎ去っていく」ように感じるのは、意味が移り変わる形象ごとに定置されており、その意味が実在に結びつくことで形象化され、形象として捉えられているからだ(パリサイ人や律法学者は頑として認めないだろうけれど)。そして、実在に結びつくために、目に見えない意味に数と順序などの「形」固有の属性が付与されるとはいえ、「時」の感覚が対象にしているのは、運動ではなく意味であるということだ。(アキレスと亀の「競争」は、従来のように運動量でではなく、1:1にあらかじめ設定された両者の形象化された運動の意味自体を、同時に数えることによって行われる。そう、1:1を、同時に。)

気付いてほしいのは、自然におけるある形象が起こる時、別の形象がいくつ起こるかという関係性は、形象化された意味の「対比」の問題であるというだけでなく、無限の数字に対する恣意性によってしか、設定されないということである。つまり、物理現象からは、決して演繹されない関係性であり、形象に結びつきながらも、完全に意味の世界の問題なのだ。さらには、ひとつの形として、我々が「実在」と通常呼んでいるものは、形象による形態の変化を有するという点で、「形」としてはともかく「意味」としてはすでに「常にあり続けている」何かではなく、ひいては「時」という楽譜によって用いられる楽器ではあっても、その演奏者ではないのである。

そして私は、意味と形の結びつきである実在を言語と同じ構成であると見るとき、また、「恣意」以外の何ものにも原因を認められない形象と形象の、何ものからも断絶された完全に相対の関係性が機能していることを認識するとき、また意味と形を恣意的に結びつける要素を、私が知る限りでは、身体を言語のために生贄にする人間の精神の類―所詮動物の判断は記憶における順序と順列に因る―にのみ発見するとき、そして、実在における形象の完全な連続には、「実在」と呼ばれるひとつの形の楽器とその変化する形態では決してない、「常に在る何か」が、必然不可欠であることを見るとき、時という楽譜を時間という音符で構成する作曲者と演奏者を考えざるを得ない。どれだけ控え目に言っても、そうした「何か」が、すべてに不可欠なのだから。

そしてその音楽の主題は、その不滅と永遠によって証明される。演奏者に栄光を帰するために死によって残された、「復活」と「永遠」を含むそのことばは、演奏された。何ものにも先立つそのことばのために、かつての創造が始まったからだ。

πόντον σπείρειν. 海に種を蒔く;労して効なし。


現代日本語における「クリスチャン」という単語は、多義語である。

1. 人に殴りかかったり唾を吐いたり鞭で打ったりすると、自分のしたことがなかったことになると信じている極悪オカルト主義者。
2. パンとワインを肉と血に変えようとしたり、塵を聖地や領土と呼んで縄張り争いをしたりする、動物なのに自然に敗北する嘘つき。
3. 世界のすべての生き物と、自然と、国家に敵対する破壊者の捕虜。